teacup. [ 掲示板 ] [ 掲示板作成 ] [ 有料掲示板 ] [ ブログ ]

 投稿者
  題名
  内容 入力補助画像・ファイル<IMG> youtubeの<IFRAME>タグが利用可能です。(詳細)
    
 URL
[ ケータイで使う ] [ BBSティッカー ] [ 書込み通知 ]


授業の補足

 投稿者:谷 昌親  投稿日:2012年 7月23日(月)11時22分43秒
返信・引用
   7月17日の授業について少し補足をしておきましょう。

 いくつか比較を試みてみましたが、最初は、森田監督の映画における食事のシーンでした。ある監督の特徴が作品のなかで現われてくる際、なんらかのかたちで突出して見えてくるのが普通です。『家族ゲーム』における食事のシーンはそのいい例です。しかし、『家族ゲーム』だけで考えていると、その食事シーンの異様さばかりが目立ってしまい、森田監督の作品全般における食事のシーンの意味を見あやまるおそれがあります。それで、『武士の家計簿』の食事のシーンと比較してみたわけです。

 そのようにして、『家族ゲーム』における尖りすぎた部分を他の作品との比較で少し滑らかにすることで、森田監督の映画の場合、ある人物が他の人物とのあいだでどのような関係を持つか、そうした関係性のなかでひとりの人物がどのように見えてくるのか、といったことがよりはっきりしてくるように思うのです。

 一方、同じような場所や同じような状況を別の監督の作品で比較するということもやってみました。いくら場所や状況が似ていても、もともと違う物語やテーマがある作品を同列に論じるのはむずかしいのですが、鮫の映画とサーフィンの映画という決定的な違いがあるにしても、そこに海や浜辺をどのように見るかという視点の違いのようなものが、『ジョーズ』と『あの夏、いちばん静かな海』では出てくるはずです(もちろん、本当はそうした比較はあくまで映画全体を観たうえでしたほうがいいのですが……)。

 そして、海や浜辺といった場所をスピルバーグが開かれた空間(あるいは開かれたものとなりうる空間)としてとらえていて、一方、北野武にとってはむしろ閉じられた空間(ある意味では、どうどうめぐりの空間)になっているといったことが、少しは感じられるのではないかと思います。それは、二人の世界観の違いのようなものにつながるでしょう。

 さらに、スピルバーグのように開かれた空間を求める姿勢は、当然、ある種の憧れを外の世界に求める姿勢になっていきます(『ジョーズ』の場合は、外からの来訪者は恐怖をもたらすものでしたが、『宇宙戦争』と同じで、そうした侵入者があることで、元からある共同体の見直しがおこなわれるという意味では、『ET』や『未知との遭遇』とそれほど大きな図式の違いはありません)。ただ、同じように外の世界への憧れを持っていても、それはウディ・アレンの虚構世界や夢の世界への憧れと比較すると、アレンの場合、その憧れの視線は単純に外へと向かうわけではなく、もう少し屈折し、ある意味では内側へと向かってもいたことがわかってくるでしょう(もちろん、スピルバーグの場合も、父親の不在ゆえの宇宙への憧れといった屈折はあったのですが……)。

 上にも書いたように、こうした比較は映画をまるまる観たうえではじめてはっきりしてくる部分もあるので、授業でやったようにあるシーンだけを取り出して比較しても、あまりはっきりしてこないかもしれません。しかし、映画をたくさん観ているうちに、きっと、こうした比較を自分で自然におこなうようになり、そのことで映画の観方が変わり、さらに、監督による世界観の違いが見えてきて、少し大げさに言えば、世界の見え方は一様ではなく、人によって、あるいは状況によって、違って見えてくるのだということに気がつくでしょう。そうしたさまざまな世界の見方を知ることで、自分の世界も広がり、豊かになっていくにちがいありません。
 
 

森田芳光

 投稿者:谷 昌親  投稿日:2012年 7月16日(月)18時18分49秒
返信・引用
   グループEのお二人、発表お疲れさまでした。ぼくの結膜炎は治ってきましたが、家人にうつってしまい、それだけに家のなかはやや混乱していて、今回も書き込みが遅くなりました。

 森田芳光監督のフィルモグラフィーをざっと眺めてみると、多岐にわたる作品が並び、しかもスピルバーグの場合のユダヤ人のテーマや父親のテーマといった監督個人につながりそうなテーマもすぐには見えてこず、そういう意味ではなかなかアプローチがむずかしかったと思うのですが、「日常を描く」「人間を描く」という点に注目することで、森田監督の特徴がそれなりに浮き彫りになってきていたと思います。

 ただ、これはむずかしいことですが、「日常を描く」「人間を描く」ということは、ほかの監督も当然ながらやっているので、それとの違いを出したいところです。今回の発表では、いくつかの作品を順番に見ていくという形式ではなく、森田監督の映画の「形式面」と「内容面」に分け、特徴を順番に見ていくという形式だったので、一目瞭然というわけではない森田作品の性格が、わかりやすくなってはいました。しかし、それぞれは興味深いものであっても、個々の特徴どうしのあいだの関係があまり考察されないので、島がいくつもできるものの、その島と島がつながらず、孤立してしまう感じです。さらに、「形式面」と「内容面」に分けたうえで、その両者の関係も少し考えてみたかったですね。

 さまざまな特徴間の関係は、それらを並べ、さらに作品を観たりすることで見えてきたりもしますが、また違った関数のようなものを考えてみるとよい場合もあります。たとえば、「日常のなかで人間を描く」のが森田作品だとしても、彼の映画に出てくる人物は、多くの場合、なにか独特のこだわりを持っていたりもします。それは、必ずしも大きな事件を引き起こすこだわりではないので、あまり重要ではないように思えてしまったりもするのですが、それをひとつの関数として当てはめると、特徴どうしのあいだの関係が見えるかもしれません。もちろん、これ自体、それほど簡単なことではないのですが。

 いずれにしても、こうしていろいろと考えてみることで、ひとつの作品の見え方が変わってくることは実感できるでしょう。そしてそれは、映画作品だけにかぎらず、いろいろなものの見方にもつながっていくと思うのです。
 

ウディ・アレン

 投稿者:谷 昌親  投稿日:2012年 7月 9日(月)19時15分22秒
返信・引用
   グループDのお二人、発表お疲れさまでした。実は、先週末に体調を崩してダウンしてしまい(夏風邪ですが、結膜炎にもなっているので、プール熱というやつかもしれません)、今日の午前中に病院に行って薬をもらい、ようやく少し楽になってきたところです。そのため、コメントを書き込むのがずいぶん遅くなってしまいました。

 ウディ・アレンの映画はいろいろな意味で特徴があり(それは彼がもともとハリウッドの人間ではないからでもあるのでが)、かえってまとめにくい面もあったかと思いますが、現実とファンタジー(虚構)という枠組みで考えることで、ずいぶんとすっきりし、わかりやすい発表になっていました。しかも、虚構が現実に影響を与え、自分自身を縛りつけているアイデンティティを乗り越えることができる、という結論に持っていくことで、発表として芯ができていたと思います。

 その上で、さらに踏み込んでみるなら、『アニー・ホール』の場合の「リアリズムに反する手法」や「ユダヤ人/インテリ/コメディアンとしてのアイデンティティ」の部分は、他の「虚構」とは少し性質が違う部分があるので、そのあたりをもう少し考えてみてもいいでしょう。そのこととも関係するのですが、たとえばユダヤ系という意味では前の週のスピルバーグと同じわけですが、スピルバーグはもっと正面からユダヤ人の問題を扱っています。それに対し、アレンはつねにシニカルな観点から見ています。そのシニカルさは、ギャグ・ライターとして出発したという経歴とも無縁ではないでしょうし、映画を撮るようになってもコメディアン的な資質が発揮されているとも言えるでしょう。いずれにしても、シニカルに見るということと、否定的に見る(乗り越えるべき対象として見る)ということとは、少しずれてくると思います。そのことも、もう一度考えてみるといいかもしれません。

 今回の発表では、最初に『アニー・ホール』の「リアリズムに反する手法」についての説明があったので、はじめてアレンの作品に接する人は、ずいぶん奇抜なことをする監督だと思ったかもしれません。しかし、彼は、特に最近では、もっと普通と呼んでいい作品を撮っています。『ミッドナイト・イン・パリ』も、確かに「虚構」が現実のなかに入ってくるような面がある映画ですが、撮り方はオーソドックスで普通に楽しめる映画です。

 ウディ・アレンの映画は、どちらかというと、アメリカ本国よりもヨーロッパでの評価が高いのですが、それだけ従来のハリウッド映画と違うということでもあります。もちろん、ハリウッドが映画の中心であることはまちがいないのですが、一方で、周辺の作品もときどき見てみると、皆さんの映画観に広がりが出てくるのではないかと思います。
 

スピルバーグ

 投稿者:谷 昌親  投稿日:2012年 7月 1日(日)13時43分3秒
返信・引用
   グループCのお二人、発表お疲れさまでした。遅くなりましたが、感想めいたことを書いておきましょう。

 スピルバーグ作品の「光」と「闇」にテーマを絞ることで、非常に明解な発表になったと思います。しかも、普通にスピルバーグの映画を観ているときは、そのエンターテイメント性に眼を奪われて見えてこないさまざまな側面にも気づかせてくれる発表でもありました。

 ただその一方で、「光」と「闇」の関係をもう少し深めて考えられないか、説明のなかで出てきた個々の要素をそれと関連づけられないか、という思いもしてきます。もちろん、これはそれほど簡単なことではないので、じっくりと考えていく必要があるでしょう。たとえばですが、「光」の世界が多かれ少なかれ子供の世界と重なってくるのがスピルバーグ的な映画だとすれば、それでも「闇」が出てくるのは、スピルバーグ自身がある意味で「子供」から「大人」(あるいは父親)になったということを言えるかもしれません。「大人」の眼から見れば、この世界は「光」の部分だけではないことは言うまでもありません。さらには、「光」と「闇」の区別も必ずしもはっきりしない。『ミュンヘン』を例にあげるなら、主人公はイスラエル人ですが、パレスチナ人を単純な悪として描いているわけではありません。

 もともとスピルバーグは一種の「他者」に対するこだわりの強い人のように思います。彼自身の出自や生い立ちなどもそれには影響しているのでしょうが、E.T.も鮫のジョーズも「他者」として訪れます。初期のころは、その「他者」と対決したり、逆にコミュニケーションをとったりしていたわけですが、ある時期からは、一方ではインディー・ジョーンズ・シリーズのような明快そのものの映画を撮りつつ、敵とも味方とも簡単にはレッテルを貼れない「他者」の問題が出てきているのかもしれません(『宇宙戦争』の宇宙人は絶対的な悪と言えるかもしれませんが、その宇宙人の襲来で地球人同志のあいだにさまざまな混乱が生じ、たがいが「他者」になってしまうとも言えるでしょう)。あるいは、最初期の『激突!』で敵の顔が最後まで画面に映らないことも思い出すと、「他者」というのは単純にある個人に特定できてしまうものでもない。だからこそ、「歴史」への関心も生じてくるのかもしれません。

 そのほかにも、いろいろなことが考えられるようにも思うのですが、いずれにしても、一見すると誰でも楽しめるエンターテイメント作品の作り手とおぼしき監督に独特のこだわりのようなものがあることを発見し、それによって、作品をもっと深く読み解くというのは作家主義の醍醐味のひとつです。
 

北野武

 投稿者:谷 昌親  投稿日:2012年 6月22日(金)10時35分50秒
返信・引用
   グループBの皆さん、発表お疲れさまでした。

 「北野武、「死」への眼差し」と題をつけてくれたことからもわかるとおり、全体のテーマがはっきりしていて、まとまりのある発表になっていました。映像を見せている時間がやや長くて、紹介に近くなってしまった部分もありましたが、逆に言えば、それだけ個々の作品について詳しく説明してくれたということにもなるでしょう。

 ただ、教室でも言ったように、北野武における「死」の問題については、もう少し踏み込む必要があります。たしかに彼の映画で死が一種のエンタテイメントとして描かれてはいますが、その描き方は、発表にもあったとおり、独特のものがあります。それはなぜなのか、どうしてそうなるのか、その点を考えなければ、北野武の映画について本当の意味で考えたことにならないでしょう。もともと、北野には一種の自殺願望に近いものがあり、それが映画にも現われ、ある意味では、バイク事故を引き起こしたとさえ考えられます。精神分析学では「死の欲動」と呼ばれる謎の自己破壊衝動のようなものが人間にはもともとあるのですが、それを北野武は人一倍強く意識していたと言えるかもしれません。

 こうした「死」についてのスタンスは北野武自身の発言にもあれわれてきていますから、そのことを踏まえたうえで、北野武論を再構築すれば、さらにいいものになるはずです。また、特徴の説明のなかで、「死」の問題とはあまり関係ないように思われるものもありましたが、たとえば「キタノブルー」や「絵画における語り」がその「死」の問題とどこまでからむのか、そのあたりももう少し掘り下げる必要があります。そうでないと、これらの特徴の説明は、たんなる紹介になってしまい、論を組み立てる要素とはならないからです。

 それから、今回は「HANA-BI」までの北野映画を扱うという枠組みだったと思うので、そのなかではよくまとまってはいましたが、その後の彼の映画は、また少し違う側面を見せてきています。そのあたりのことも少しは視野に入れつつ、初期の北野作品を見る必要もあるでしょう。そうすれば、なぜいまになって『アウトレイジ』のような作品が出てきたのかを考えることもできるはずです。

 

カウリスマキ

 投稿者:谷 昌親  投稿日:2012年 6月18日(月)10時42分24秒
返信・引用
   グループAのお二人、発表お疲れさまでした。先週はなにかと慌ただしく、書き込むのがだいぶ遅れてしまいましたが、感想めいたことを述べておきます。

 とは言っても、発表のあと、時間の余裕がわりあいあったので、思ったことはだいたいすでに述べたつもりではあります。

 まずなによりも、初回の発表はいろいろな意味でやりにくい部分があるはずですが、カウリスマキについてよく考えてきてくれていましたし、全体のまとまりもそれなりにあり、流れもできていて、ハードルを十分な高さで越えていたと思います。おそらく、これから発表するグループにとってもひとつのお手本となったことでしょう。

 そうした意味ではいい発表だったと思いますが、やや物足りなかった点も指摘しておけば、教室でも言ったように、せっかくいくつかのポイントを挙げているのだから、そうしたポイントどうしを関連づけてみると、カウリスマキの「モラル」の内実がもっとはっきりしたでしょう。

 それから、少ないセリフや無表情の代わりに、視線が重視され、たばこや酒で感情を表現するというのは重要な指摘ですが、カウリスマキの映画がどのように寡黙であり、その代わりにどういった表現が採られているのかという点を、もう少し掘り下げてもよかったように思います。とりわけ、このことは映画が言語芸術ではなく視覚芸術であるという点と関係してくるので、大事です。また、カウリスマキの映画自体が、過去の数々の映画の記憶をはらんでいるようなところがあるので、寡黙な映画というのは、映画の最初期のサイレント映画からの伝統につながるところもあるはずです。

 最後に、「新約聖書に基づくモラル」という問題に触れておきましょう。カウリスマキも西洋人としてキリスト教の影響は受けているはずですが、普通の人以上に聖書を重視しているとはぼくにはあまり見えません。もしそうしたことを本人がどこかで言ったとしても、なにしろ、「オレの映画なんてクソだ」などと平気で言ってしまう人ですから、あまりすべてを真に受けないほうがいい部分があると思います。ただ、気になったので少し調べてみました。すると、2002年のインタヴューで、モラルの重要性を語り、「そのモラルの基にあるものは何ですか?」と質問されたのに対し、「……バイブル。でも、旧約聖書じゃないよ」と答えているのが見つかりました。発表者も、おそらくここから「新約聖書に基づくモラル」ということを導きだしたのではないかと思います。しかし、ぼくが考えるに、この「バイブル」というのは、キリスト教にとどまらない、もっと広い意味で言ったのでしょう。いわば、自分個人にとっての「聖典」のようなもの、どうしても譲れない一線があるということではないでしょうか。そして、「バイブル」という言葉を宗教的に取られないよう、「旧約聖書じゃないよ」と付け加えたのだと思います。

 この例にかぎらず、監督の言葉をしっかり受けとめることは大事ですが、受けとめたうえで、実際に作品との関係で考えてみることが必要です。そうでないと、監督の示す道筋に添ってしか映画について考えることができないという危険も生じてしまうわけですから。

 いろいろと付言もしましたが、最初に書いたとおり、発表全体としては、作品や監督に寄り添いつつもしっかりと自分たちで考えていて、いい発表だったと思います。これからも、充実した発表が続くことを期待します。
 

ヒッチコックのサスペンスについて

 投稿者:黒川真琴  投稿日:2012年 5月29日(火)22時45分42秒
返信・引用
  ①サスペンス発生の前提となるもの
・リスクを常に負ってる
・緊迫している
・日常・平常→ヒッチコックのインタビューでの文章にもあったが、客にサスペンスだけの印象を残すには平凡な背景がリアルに描かれてることが必要不可欠
②サスペンス発生の契機
・ミス→よく考えたら違和感あること
ヒッチコックは、他のサスペンス映画にあるミスと違って、ミスを『させる』点=ミスの結果が発生する点に特徴がある
→ワインが落ちそうになる→主人公が気づかずに実際に割れる
他の映画なら、ここで阻止するという描き方もある
→ミッション・インポッシブルとか

③時間の捉え方?
・サスペンスを表す状態として、『減少』が挙げられる。
→ワインが減る
→時間が減る
 

小津について

 投稿者:谷 昌親  投稿日:2012年 5月25日(金)16時00分23秒
返信・引用
   小津の映画について質問を受けたので、掲示板で答えておきます。

 質問は2つで、ひとつは、小津の映画では結婚式などの大事な場面が描かれず、時間を操作していて、秩序ではなく、むしろ無秩序を作り出しているのではないか、というもの。
 もうひとつは、『父ありき』で釣りの場面が繰り返されていたが、こうした反復は小津の映画によくあるのか、また、どういう意味を持つのか、というものです。

 まず最初の質問ですが、吉田喜重さんが秩序というとき、あまり時間の問題は出てきません。しかし、ほとんど映画は、もともと時間を操作しています。ある一定の時間の流れをそのまま映画で示す例はまずありません(実験映画などでたまにありますが)。そして、ただ自然状態にしておくことは、吉田さんの言い方では、むしろ「無秩序」になります。われわれが日々の生活のなかで言う時間というのもかなり人工的なもので、時間の流れに区切りをつけ、何時などと呼んでいるのですから、これも秩序をもたらすやり方のひとつではあるわけです。
 だとすれば、問題は、時間を操作するにしても、どのようにするか、ということです。
 小津の場合、構図やその他の撮り方もそうですが、われわれの日常的な見方とも、普通に映画でおこなわれる見方とも違う仕方で世界を見ている、それを吉田さんは「秩序」と呼んだのだと思います。どの映画も、ある意味では世界の無秩序を秩序だてているのですが、その秩序だての仕方が、小津の場合、常識的なものでなく、いわゆる普通のリアリズムとも違うので、独特の秩序観を感じさせるのだと思います。時間の問題にもおそらく同じようなことが言えるでしょう。

 次に反復ですが、小津の映画には日常生活が出てきますが、日常生活とはまさに反復です。ですから、例の釣りの場面ほどはっきりしていなくても、小津の映画に反復はつきものです。そして反復があるからこそ、ずれが目立ちます。
 『晩春』でも、娘が嫁ぐとき、彼女がいなくなった部屋が映りますが、それまでに何度か観客は映画のなかで彼女の部屋を見ています。しかし、それまでは必ず紀子がいました。しかし、最後に彼女のいない部屋が映る。それは、繰り返し映った部屋のショットに生じたずれです。反復があってずれがあることで、一種の時間の経過、そして家族に生じた変化が示されているのだと思います。

 とはいえ、ここで書いたことはいわば常識的な回答とも言えるので、もっといろいろな考え方もできるでしょう。小津の映画について、時間の観点から考えた論は意外にない気がするので、もう少し考えてみるとおもしろいかもしれません。
 

晩春

 投稿者:三宅  投稿日:2012年 5月10日(木)12時21分18秒
返信・引用
  共通点
 結婚がゴールとして描かれている。
 構図が同じである。
 父親が働くシーンが描かれている。
 戦争の体験を語り合うシーンがある。(この点、「思い出話」として笑顔を交えながら語り合っているのが特徴的だと感じた。)

相違点
 より感情のこもった表情や言葉。

特徴
 構図やカットバックに加え、人物の手前に何かを置いてかぶせたり、横にして撮ったり、後ろ姿のまま感情を語る台詞を話させるなど、人物の心情を読み取りにくくする工夫が施されていた。
 単調に延々と続くシーンがある。(自転車、電車)
 駅やコーラの看板など英語の文字。

その他
 前半までで気がついた点として、「新婚」「結婚何年目か」「離婚」「再婚」をしたばかりの人物が話を含めそれぞれ出てくるが、「結婚何年目か」の同級生を除き、どの人物も現在は幸せである、というように描かれていた。
 「コカコーラの看板」=アメリカ文化の象徴である。この看板が特徴的に描かれているところから、戦後のGHQによる支配、文化の流入や人々の価値観の変容が読み取れた。戦後最も変化したものの一つとして家制度の廃止があげられると思うが、「コーラの看板」「自転車のシーン」の直後に親世代による「このごろの若者の結婚に対する意識の変化」を語るシーンがあるなど、実際小津監督もこの頃の社会の変化、価値観の変化を身にしみて感じていたのではないだろうか。
 彼岸花で「夫婦」のありかたの様なものが象徴的に描かれていたことにより殊更奇妙に感じてしまったのかもしれないが、この晩春では「夫婦」を「親子」が演じていた。紀子は娘であると同時に妻でもあり、父は父であると同時に夫でもある。服部との結婚について話すシーンで、「服部は結婚している」=「紀子は嫁にいかない」ことを知った直後の父親の表情、父親の再婚話が出たシーンの紀子の表情。ここで紀子は初めて「女」の顔で不快感を露にした。(服部と話すシーンや服部の結婚を語るシーンでは、どちらかというと「少女」のような顔をしていたように思う。)更に極めつけは能のシーンだが、一切変化することのない能面、始終微笑をうかべる父親の表情との対比が、変化する紀子の表情を際立たせ、父が再婚するかもしれない相手に対する複雑な心情を印象的なものにしていた。
 この点、近親相姦的な怪しいかおりがしないでもないが、この親子には母がおらず、しかも戦時中や戦後の動乱期をともに生き抜いてきたのであるから、現代に生きる私たちには到底想像もつかないような強いつながりがあるのだろう。
 父親自身も、彼岸花の父親と比較すると、積極的に紀子を嫁がせようとしている訳でもなく、実際は手放したくないと思っているのではないだろうか。
 いづれにせよ、あまり表には出ていないものの、戦争および敗戦が小津監督や日本社会に大きな影響を与えたということが感じられた。

 杜若について、調べてみたのでURLをはっておきます。
http://www.the-noh.com/jp/plays/data/program_029.html

 業平の詠んだ「唐衣・・」は藤原高子を思って詠まれたものだそうで、彼女との恋は禁忌であったようです。
これが父子をさすのか、業平の本当の妻を紀子と重ね、杜若の精を父と妻候補とおくのか、そうでないのか、わかりませんが、複雑なお話のようです。
 

2012年5月8日の話し合い

 投稿者:黒川真琴  投稿日:2012年 5月10日(木)07時57分11秒
返信・引用
  ○共通点
・奥行きを感じさせるシーンが多かった(はじめのお茶会のシーンや来客とりわけ玄関の場面が多かったように思う)
・繰り返しのセリフの多用(「くう」や「そうかしら」など)
○相違点
・キャストの表情の変化が「晩春」のほうが多かった。
・「晩春」は娘視点で描かれていた。「彼岸花」はどちらかというと親視点
  →「晩春」での家族は父と娘ということで、「彼岸花」とは異なって家の中に母親がいないことから、娘・父それぞれが母親の役割の一部をそれぞれ担っていて、それゆえに「彼岸花」と比べて表情や動作で心情が語られることが多いのではないか
・西洋と日本の対比を強調
 →英語の看板・喫茶店、一方で能やお茶
○その他
・のりこが服部さんを「好きよ」といった場面をあえて後ろから撮っていたことが気になった。
・景色のみの画では必ず草木や波や汽車や洗濯物など何かが動いていて、常に動的なモノを感じさせる。→日常の時間の流れを感じる
 →前回の配布プリントの是枝監督が語っていた、「でも小津さんの映画って、絵的には止まって見えるんだけれども、感情的にはいろいろなものが渦巻いていて、誰もいない風景を撮ったときでも、ざわざわと静かに波立っている」これを感じた
 

レンタル掲示板
/21